道に使われるべし
三天主考 令和6年4月12日
天道を行じるとは 己れが天道を使う事なりや
天道に使われる事なりや
道に使われずして 真の行道とはなり難し
道に使われて 其の救いを自らより発すなり
何の為に道を行じ、己れを修め、救世主としての素養を磨き高めんとするや。其の身に付いた能力は何が為にありや。是れ生かされずして其の意味を為さず。積み上げられた知識も、自己を満足させて終わるのでは本来の智となり得ず。
心を修めるとも其の心をして導かず。後進を育む事無くば、何を入れる器とならんや。道を行じては自らが其の上で、只歩みて居る丈となりてはならず。道に使われるべし。則ち神佛に使われ、聖業の為の霊心体となり、最高の救いの道具と言われる所以(ゆえん)を示す事が求められん。
道に使われるとは當に道の救いを体する事なり。自らの智仁勇一切の徳を道の力へと変える事なり。未だ理解浅くとも、道歴が長くなくとも、真心を以て伝えれば感化を起こし、背後で働く霊も動かし又、其の霊の積徳の依り代として、自らが使われる事にもなるなり。
神国伝道の実践とは、如何に己れが道に使われる事が出来るかにあるなり。其の赤誠を表し、道の救いを伝えては、神国の光と共にあるべし。